★★ 労働基準法が世に出るまで ★★
「労働基準法が世に出るまで」という本を読みました。
本の言葉を引用しながら、労働基準法ができたときのことを振り返ってみたい
と思います。
■ 重要ポイント ────────────────────────
労働基準法は敗戦後の困窮する状況の中で、国際的な基準に合った労働者の労
働条件を保障しよう、産業復興と国際社会への復帰を目指そうと施行されまし
た。
■ 新しい労働保護法の必要性 ───────────────────
戦後すぐの昭和20年10月、厚生省の機構改革が行われました。
総司令部は占領政策に基づいて、労働組合組織の助長育成、戦時体制に協力し
た労務関係団体を解散しました。戦争中の総動員法に基づく工場事業場の労務
管理はなくなり、工場法等戦時特例は廃止されました。
まったく新しい見地から新労働保護立法を行う必要がありました。
■ 戦後間もないころの状況 ─────────────────────
戦災者、引揚者、復員者が巷に溢れ、生活は極度に乱れ、工場の火は消えて産
業は麻痺状態でした。赤旗が林立しインターの声が高い情勢でした。
東京芝の労働保護課の庁舎は一面の焼け野原、ところどころバラックがたち始
めたところでした。
当時の日本の食料事情はとても悪く、極度の食糧難で栄養失調の職員も多くい
ました。配給では足りないので皆が買い出しにいっていました。
差し入れられたお米もおにぎりにするとすぐ尽きるので、おかゆを作ってす
すりあって遅くまで法案作成作業をするような毎日でした。
■ 労働保護法案として ────────────────────────
昭和21年4月、広く全労働者を対象とする労働保護法作成要領が出されました。
旧来の労働慣習における封建的制度を抜本塞源的に払拭し、労働条件の最低
限度を国際的標準まで高める内容でした。
■ 戦前までの封建的制度────────────────────────
当時言われた封建的な労働関係とは次のようなものです。
・身売り又はこれに類似する前借金制度、
・婦人及び年少労働者の低賃金、
・監獄部屋、鉱夫長屋又は束縛せられたる寄宿舎制度
・家内工業におけるがごとき無制限労働等のごとき奴隷的労働制度
これらが、払拭しなければならないとされた当時の労働事情でした。
■ 法制定に向けて────────────────────────
昭和21年7月、事業主団体と労働組合に質問書を出し意見を聞き、9月、公聴会
を開いたりしながら法案が作られました。
12月に法案を労働大臣に答申、内閣法制局の審査を経て昭和22年3月4日労働
基準法案が衆議院に提出されました。その後、労働基準法は同年3月27日に成
立、4月7日法律第49号として公布され、9月1日から施行されました。
■ 労働基準法案の提案理由───────────────────────
法案の作成にあたり考慮したことが3点あると当時の河合厚生大臣は議会で次
のように説明しました。
(1) 労働条件の決定に関する基本原則を鮮明にすること
(2) 労働関係に残存する封建的遺制を一掃すること
(3) 8時間労働制、週休制、年次有給休暇制の如き基本的な制度を一応の基
準として、この法律の最低労働条件を定めたこと
さらに以下のように締めくくりました。
「戦前我が国の労働条件が他の文明国に劣っていたことは国際的にも顕著なも
のでありました。敗戦の結果荒廃に帰せる我が国の産業は、その負担力におい
て著しく弱化していることは否めないのでありますが、政府としては尚日本再
建の重要な役割を担当する労働者に対して国際的に是認されている基本的な労
働条件を保障し、以って労働者の心からなる協力を期待することが、日本の産
業復興と国際社会への復帰を促進する所以であると信じるのであります。」
※「労働基準法が世に出るまで」松本岩吉薯 労働行政研究所 昭和56年